30周年スペシャルインタビュー
ヨネックスと30年、
限界突破に挑み続けるライダーたち
青野令
愛媛県松山市出身。小学校4年でスノーボードを始め、2006–07シーズンにワールドカップ年間総合優勝、2009年世界選手権ハーフパイプで日本人男子初優勝を達成。X-GAMESでも銀・銅を獲得し、世界屈指のエアの高さで知られる、日本スノーボード界のレジェンドの一人。
果敢に世界へ挑み、日本スノーボード界の歴史を切り開いてきた青野令。その歩みを長年支えてきたのが、ヨネックスとの強いパートナーシップ。愛媛から世界の舞台へと飛び立ち、数々の栄光を重ねてきた彼。今、その挑戦の原点と未来への思いを語ってもらう。
普段はどのような日常を過ごし、スノーボードと関わっていますか?
今は社会人として、スノーボードとは全く別の仕事をしています。冬は「YONEXキャンプ」などでコーチをしたり、スノーボードの板の開発に関わったり、さまざまな活動をしています。
ヨネックスのスノーボードを使い始めたきっかけは?
同じ練習場で憧れの選手がヨネックスに乗っていて、自分も同じようにヨネックスに乗りたいと思ったのが最初のきっかけです。試乗会で初めて乗った時は、板が軽くて反発力があり、自分自身も高く飛べた感覚がありました。
そこから世界最高峰の国際大会への出場を意識したのはいつですか?
10歳の時、全日本コーチのキャンプに参加し、「スノーボードが上手くなりたいなら目標を持ちなさい」と言われました。その時から日本代表として国際大会に出ることを目標にしていました。
国際大会への出場が決まった時に芽生えた感情は?
目標をかなえた後も、スノーボードに出会ってから常に挑戦の連続でした。結果を残すことよりも「誰かの記憶に残りたい」という気持ちが強くなり、自分のバックボーンを信じて表現することが「自分らしい滑り」につながると思っていました。
キャリアの分岐点や、これまでに直面した最大の壁は?そこから学んだ教訓とは?
キャリアの分岐点は、2007年スイスのアローザで行われた世界選手権。予選1本目で転倒して敗退し、スイスまで来たのに一本で終わってしまい、悔しさで泣き崩れました。
壁について言えば、若い頃はほとんど感じませんでした。常に挑戦の連続で、壁を壁とも思わなかったんです。けれど年齢やキャリアを重ねるにつれて、下から勢いのある選手が出てくることに焦りを感じ、何度も辞めたい、楽になりたいと思ったこともあります。
でもそれは、若い選手を意識するあまり自分を見失い、新しい挑戦を忘れ、人と比べていたからだと気づきました。そこからは苦手を克服するより得意を伸ばすこと、人と比べず自分の滑りを磨くことを心がけました。その結果、再び成績も出せるようになったんです。社会人になった今も、「人と比べず、自分のやるべきことに一生懸命取り組めば、必ず結果につながる」と信じています。
ヨネックスとの関わりについて、簡単に教えてください。
サポートが始まった時、憧れのヨネックスに応援してもらえることが本当に嬉しかったのを覚えています。ヨネックスのスノーボードがなかったら今の自分は存在していないと思いますし、数えきれないほどの経験をさせてもらい、それが成長につながりました。今も業務委託先として様々なプロジェクトに関わることができ、誇りに思っています。
ブランドと共に歩むことで、自分のスタイルがどう進化しましたか?
自分のスノーボード人生25年間全部、ヨネックスと共に歩んできたのですが、若い頃のように飛んだり回ったりするだけでなく、今はゲレンデを優雅に、気持ち良く滑るスタイルになってきました。また、大会で不安を感じる時も、滑走前に板を履くと「この板ならできる」と自信をもらえるようになったと実感しています。
ヨネックススノーボードの中で、自分のスタイルに合うのはどんなところ?
クリック、トレカ、イソコアは自分の滑りには必需品です。反発力でスピード、高さ、回転の遠心力を作り、クリックのスウィングウェイトを使い回転数をあげる事が出来るから。
最後に、30周年を迎えるヨネックススノーボードに一言お願いします。
30周年おめでとうございます。自分が選手で契約更新の時は「来年はこうしたいな、こうなったらいいな」と新しい目標を与えてくれました。そんなヨネックスには常に成長の道を作ってもらい、とても感謝しています。
私はこれからも変わらない信頼関係を続けたいですし、スノーボーダーにとって信頼感、高品質、高級感のあり続けてほしいと思います。
今後もまだまだ進化するヨネックススノーボード、楽しみにしています!