歴史・沿革 History

  • ヨネックスの歩み
  • 製品・選手

1946
昭和21年

  • 第2次世界大戦中に他界した稔の父が残した、木工用の1台のモーターを母から託され、桐木栓(酒造用呑み口)、木製ウキなどの製造を開始。当時は北洋のサケ・マス漁業の隆盛期で活況を呈する。

1953
昭和28年

  • 当時使用されていた漁網が木綿からナイロン製に変わり、ウキも木製からプラスチック製に変わったことで大打撃を受け、技術力と情報力の不足を痛感。新事業開拓の必要に迫られ、遠隔地の雪国に適した小型で付加価値が高く、木工技術が生かせ、かつ成長性のある事業に狙いを定め、全国を歩き情報収集を行う。

1957
昭和32年

  • 戦後導入されたスポーツで、ブームを迎えつつあったバドミントンに的を絞る。ラケットメーカー・サンバタに日参し交渉の末、OEM供給契約を獲得し、サンバタの下請けとなる。バドミントンラケットメーカーとして1歩を踏み出した。

1958
昭和33年

  • 親会社からラケットの品質を評価され、低価格品以外に中級品、やがては海外輸出品の生産を手掛けるようになる。

1961
昭和36年

  • 設備投資を行い、オートメーション工場を目指すまでに成長する一方で、親会社のサンバタが倒産。連鎖倒産の危機に直面するも、ヨネヤマブランドでの再出発を決意。直談判をするなど粘り強い交渉の末、取引先を獲得し、ヨネヤマブランドの旗揚げを果たす。

  • 東京営業所を開設

  • 本社(現新潟工場)第1工場を新潟県三島郡越路町(現長岡市)に建設

1962
昭和37年

  • バドミントンラケットの原点と言われるNo.1000、2000を発売。当時の関東大学リーグで、初優勝した中央大学が使用したラケットにちなみ、その活躍が「茶色の旋風」と呼ばれ、使用ラケットであるNo.2000が時代をリードすることに

1963
昭和38年

  • 海外へのラケットの流通を確立するため、貿易部門を分離独立させた。

  • 工場を全焼するも、突貫工事で事務所と工場を3日で建て直し、1週間後には新しい製品を出荷。これが取引先からの信用をさらに強固なものにし、念願の日本一を達成する。

  • 日本一達成後も順調に販売を伸ばす一方、市場には外国産の格安ラケットが台頭し始める。

  • 当時、世界第2位のバドミントンメーカーとされたシルバーグレイ社の総代理店となる。

1965
昭和40年

  • 自社製の競技用ラケットの開発を決断し、海外視察を敢行。木製が主流の日本に比し、フレームもシャフトもスチール製が並ぶ海外の店頭を目の当たりにし、劣勢挽回を誓う。帰国後、イギリスメーカーが主流のスチールラケットに対抗できる新製品開発のため、試行錯誤が始まる。

1966
昭和41年

  • 当時社員の秋山真男氏が、バドミントン全英選手権シングルスで準優勝

1967
昭和42年

  • 社名変更により、スポーツメーカーであることを明確化する。

  • シンガポールに代理店第1号を開設

1968
昭和43年

  • シャトルコックの製造能力を増強

  • ガス栓からヒントを得て、フレームとシャフトをつなぐ「T型」のジョイントを開発。これにより、フレームもシャフトもアルミ製の日本初の金属製バドミントンラケットが完成した。

  • 世界初のT型ジョイント搭載の、国産初の金属製バドミントンラケット「B-7000、アルミナエース」発売

1969
昭和44年

  • 第1号となるアルミ製テニスラケットを発売、テニス事業に参入

  • アルミ製テニスラケットの第1号「T-7000」を発売。イタリア、フランス、ドイツで好評を得る

1970
昭和45年

  • T-7000の折損を防ぐため、OPSシャフト構造を開発。折損事故から3ケ月後に、改良された新製品の発売に至る。

  • OPSシャフト構造搭載のテニスラケット「T-7500」を発売

  • 社員の竹中(現姓 栂野尾)悦子さん、バドミントン全英選手権シングルス初優勝。以後、ダブルスで4回優勝

  • 全日本実業団バドミントン選手権でヨネックスチームが初優勝